最近、「蜘蛛の糸」の話について考えています。
小さい時から(そんな時もありました。)この話はカンダカの無慈悲の心を教訓とさせる話だと漠然と思っていました。
そんなある日から、本当にこの話の意図しているところは、自分だけ助かりたい一心で後に続く者達へカンダカが一言罵声を浴びせたがために糸が切れた瞬間の、その一言であり、つまり一言に宿る言葉の重みについてではないかと思うようになりました。
この話の場合、無慈悲も含まれますが、日常のどの場面においても人と話をする以上、自分の気持ちが完全に伝わることはありません。まして、そこに感情が絡んでくればなおさらです。
簡単に払いのけれると思えば、雨でも破れない蜘蛛の糸のように常に会話というのは微妙なバランスで成り立っているのではないのか?と。
それともう一つ、お釈迦様は大悪党のカンダカにもいいところがあると知っているなら(たとえカンダカの気まぐれだとしても)、何故その時点で試すようなことをせずに、蜘蛛を助けたというその一点でお救いにならなかったのか?
これらについては考察中。いや、おそらく堂々巡りしてこの先も結論はでないでしょう。
ちなみに余談ながら手塚治の「火の鳥・鳳凰編」では大悪党の我王が逃亡中に助けた天道虫(速魚・ハヤメ)を後に勘違いから殺してしまうことで命の重さを知り、過酷な経験を経て悟りを開きます。
そこで我王=カンダカ、天道虫=蜘蛛、過酷な経験=糸(糸を登る過程)、火の鳥=お釈迦様とあてはめたとき、我王を見事に救い上げた手塚治の偉大さに圧倒されるのは僕だけでしょうか?
いいえ、貴方だけではなく、手塚治虫を含めて大勢の方々が芥川龍之介の表現した「蜘蛛の糸」に込められたテーマを心に背負って生きているから協賛して名作になっているのだと思います。私も幼い時からお寺の和尚さんの日曜学校の紙芝居で見せられ、心に焼き付けたままに生きてきました。そして七十を過ぎてやっとしあわせは人と共に分かち合ってこそ存在するものではないかとやっと感じるようになり、人と苦労や喜びを分かち合って微笑みあうときに、蓮の花の間からもれくる天国の光を感じる気がします。
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